制作することについて

 現代人である私は世界から圧倒的に遅れて生まれてきた。そう感じるのは、逆説的だが、歴史(過去)から自由であるかのように錯覚していることと関連があると考える。世界はいつでも手が届くようでいて、もはや手の届かないところにある。そんな気分になる。

 そんな気分でも、この世界を肯定するためにはどうすればよいかと考える。肯定することが単なる現状追認ではなく、また世界の改良でもないのだとしたら、それはどのようなものか。ベタに考えていても謎は深まるばかりだ。だから私は制作する。問答の相手を漠然とした「世界」から「もの」に変えてみる。

 からっ風が吹くようにものを扱い、だがしかし、決してそのものを裏切らないこと。例えば、方眼紙の罫線を愚直になぞる。そうすると、方眼の形がひたすら明らかになる一方で、その根拠が宙に浮き、見えなくなる。方眼が方眼であるままに、だがしかし元の方眼ではないものとして、別の「価値らしきもの」を帯びる。その「価値らしきもの」が、肯定の根拠となるのではないか。

 もしも一撃で世界を肯定してしまったとしたら、制作は継続不能となってしまうだろうか。いや、この飽和した世界の肯定が蛇足、過剰なものを排除するはずがない。であるならば、その一撃で都度終わり、終わったことを忘れたかのように再開される制作、それこそが肯定に関わるのだと考える。

2019/02